震災後感じた感情の御し難さについて

正直、書こうと考えていたことは「新入学女子大生に言いたいこと」だったんですが、
まぁ何と言うか、もやもやとした何かがありまして、書けずにいたわけです。

書けばいいんだけど、なんだか書くべきじゃないと思うような、
もやもやとした何かが。

東京に住んでいる僕にとって、今回の震災は「遠くの悲劇」でしたが、
原発の事故があって、その時から他人事じゃなくなったのが実際のところです。

で、今回ある程度整理が出来たので、これについて書いてみようと。
これは年代記ですから。やっぱり時事は触れておかないとね。


結論から言って、これは感情の問題ですよ。

日々の暮らしの維持と放射能への不安の間で、僕はもやもやと過ごしていました。
最近気づいたのですが、僕のもやもやの原因は、両者がかみ合っていないことから生まれる不快感だったんです。
狂った敬語を聞いているときの違和感や、変な文章を読んでいるときの不快感。
あれと同じものが頭の中で起きていたんじゃないかと。

社会の歯車として働いている僕の日常生活と、放射能への不安という感情。
関係なくはないけれど、同じレベルで比べることはできないですよ。
どっちが上とかではなく、二次元と三次元のように別次元の話なんです。

その証拠に、両方を別々に切り離しても、日常と感情で成立するじゃないですか。
仮に、放射能の件は何の問題もなかったと判明したとして、
僕の日常は大きく変わるんでしょうか?変わらないです。
仮に、仕事を止めて沖縄に移住したとして、不安はゼロになるんでしょうか。
それもないでしょう。
「3月後半を首都圏で過ごしただけでもうアウトだよ」と言われて、不安にならずにいられるわけがないからです。

どちらを優先させるべきか、という話ではありません。
とにかく別次元の話なんだと言いたいんです。

ここでひとつ脱線をして釈明をしておきますと、
別次元じゃない人も居るだろうということです。
これは東京でもやもやしていた僕の心境についての話です。
実際に生活や生命の危機に瀕している方々は、また別だと思います。
(実際に、の範囲が良くわからないのも問題なんですが)
そうした方の気分を害したら申し訳ありません。

さて、脱線から戻りまして、別次元の話なんだ、と思えば解決かというと、
まぁそんな訳はないです。実際僕だって不安ありますし。

ここでタイトルの話になるわけです。
不安をなくすのは無理です。感情の問題ですから。
「東京はなんとかベクレル」という文字を見て感情が少しでも動くなら、
やっぱりちょっとは不安になっちゃうんです。
それは当然だし、仕方のないことだと思います。
買いだめだってしちゃいますよ。
感情をきちんと制御できる人は少ないんですから。僕だって無理です。

でも、「今自分が面と向かっているのは日常の問題か、感情の問題か?」
をはっきりさせれば、少しはもやもや感が減るんじゃないでしょうか。

日常の問題なら、可能な範囲で解決させましょう。
感情の問題なら、それは何かで解決できるのか、できないのか考えましょう。
できるなら、ちょっと手をつけましょう。それで感情がおさまるまで。
解決できないならカモミールティーを飲みましょう。どうせそれしかできないんですから。


さてさて、冒頭で僕が書いたもやもや感ですが、
日常と感情をわけて考えてみたところ、感情はこうでした。

原発とか色々考えたから、どっかで吐き出したいけどめんどい

というわけで、その解消の手段がこの文章です。
めんどくさいけど頑張りました。